映画評「ドライブ・マイ・カー」(2021)

映画評「ドライブ・マイ・カー」(2021)

 

 悪くはないが決して好きではない。常についてまわるあざとさがぬぐえなかった『寝ても覚めても』から抑制された演出へと切り替わったにしては『ドライブマイカー』はまだくどさが残っている。例えば本作の編集は扉の開け閉めを挑発的なまでに省略しない。この映画のテンポを著しく遅くしているのは間違いなく編集によって所作を切らないことによるものである。エレベーターから降りるにしろ、部屋に入るにしろ、自動車に乗ろうとも、ホテルの自動ドアだろうが、それらをこれでもかと見せる。アメリカ映画へのアンチテーゼなのかはわからないが、真理子哲也の『宮本から君へ』のように開閉を飛ばす手段もあったなかこうした手法を取るのは何かしらの批判的な意識がない限り行わないだろう。
 この映画では物語が急転する際に必ず長回しで表現するのが感心できない。1回目は西島秀俊が自動車事故を起こすときの横からのショット、2回目は酒場から出た岡田将生三浦透子に会ってから盗撮してきた男を追いフレームアウトすると代わりに西島秀俊が入ってくる場面、3っつ目は韓国のスーパーからでた三浦透子が西島の自動車まで歩く横移動のトラッキングである。はっきり言ってこれらの技巧派じみたショットは使わずとも表現自体はできる。特に3はスーパーマーケットから三浦透子が出たときに勘がいい人間からあの赤い車が止まっていることにすぐに気がつくので物語を円滑に語るサスペンスの機能としては無意味である。もう少し移動が短くないと『或る終焉』というくだらない映画でティム・ロスがランニングしてるところを真正面からの長回しで撮ってそのまま轢き殺されるとか、『ライクサムワンインラブ』で映しだされる窓があからさまにこれから割れるのがわかるような、先を読めてしまうショットに類してしまう。『犬鳴村』のフロントガラスに死体が落ちてくる長回し然り、これらは演出としては必ずしも上等ではない。古典映画に驚かされるのは一見普通に見える場面もかなりの努力を伴って撮っているせいで突出した瞬間が無駄のない編集によってかき消されてわからないのだが、現代映画は露骨に見せてしまうという点で分が悪い。いわゆるショット分析がしやすい映画はフィルムスタディーズには向いてるかもしれないが、作り手の視点に立った時にそれよりも上を目指すことを考える余地を与えてしまう。どうも劇場に現れた警察官が四方八方から現れるところや空砲を発砲して撃ち殺すと撮影機がどんでん返すみたいな演出もどこかで見たような技である。
 細かい点で言えば、『ゴドーを待ちながら』を終えて控え室にいる西島秀俊上着を脱ぎ捨てるとカットが割れて椅子に引っかかると、衣服へのマッチカットで自宅のスーツケースへと飛ぶというところや、投げ渡したライターで切り返すといったカッティングインアクションが明らかにセオリーがましい。
 イタリア式本読みという方法論を聞く限りは耳障りはいいが、実際職業俳優を使って撮ると感情を抜こうとすると、西島秀俊は時にテレビドラマの際の作り声のような甘い低音を鳴らしてしまうし、霧島れいかは地声で聴こえるのはいいが「ワレワレハウチュウジンダ」と話しているように聞こえてしまうきらいがある。結局のところこのやり方は素人には向いているのかもしれないが何年も芝居をすることに慣れている人間がやるとその癖が抜けきらないので相当に厳格な演出でないと、効果的に機能するとは思えない。
 霧島れいかが浮気相手と情事に耽っているのを鏡越しに目撃する西島秀俊との間でフレーム内フレームを活用している。この映画では写真というのは不吉の前触れになっていて、遺影は当然だが、例えばその後に西島と霧島とがテレビ電話するのもそうだし、岡田将生が身を滅ぼすのはパパラッチ写真を撮られてしまったことが原因である。フェリーのニュース画面に岡田の顔が映るのは彼が囚われた証である。窓からの眺めのいいショットというのもその効果を強調しているのだろう。
 この映画は延々とモノローグのようなセリフが続く演劇的なバストショットに集約されているが、それによって沈黙するシーンが際立っているのは言うまでもない。物語が進むと常にドライブに欠かせなかった桐島れいかの録音テープが流れなくなるのはそうした計算なのだろう。濡れ場の場面を神格化しているのが旧時代的な作劇である。