エッセイ「増村保造論 肉声とどろく収縮する空間」

エッセイ「増村保造論 肉声とどろく収縮する空間」

増村保造の映画をすべて見たことはないにせよ、『くちづけ』(1957)、『青空娘』(1957)、『巨人と玩具』(1958)、『最高殊勲夫人』(1959)、『からっ風野郎』(1960)と見ていくうちに、カメラがだんだんと動きをとめ、芝居の納め方も人物が引きの絵で溝口健二的にあらゆる人物が蠢いている様相から、『妻は告白する』(1961)である種の混濁をみせたのちに、『黒の試走車』(1962)、『黒の超特急』(1964)、『卍』(1964)、『兵隊やくざ』(1965)、『赤い天使』(1966)、『陸軍中野学校』(1966)、『華岡青洲の妻』(1967)、『セックスチェック 第二の性』(1968)、『でんきくらげ』(1970)、『遊び』(1971)と歩むとともに小津安二郎的に坐ったままあるいは立ったまま狭い密室でお互いの情念をぶつけ合っていくようになる。 

これを『妻は告白する』を基点として、『妻は告白する』以前を大映初期、以後を大映後期とし、スタイルを浮き彫りにしていきたい。

Ⅰ映像的スタイル

 まず、作品の多くのデクパージュ傾向としては人物を単独で納めたショットがほとんどなく、基本的に話している二人の人物を外側からカメラを切り返していくことを積み重ねていくようになっている。

『妻は告白する』で若尾文子が会社を訪ね、川口浩に迫るも、まったく目をあわせてもらえず、ひたすら部屋の隅から隅まで逃げ、拒絶する場面の迫力はまさにこの交わらない視線が露呈しているからであろう。『黒の試走車』になると田宮二郎が菅井一郎を騙しにいくところや、裏切り者の船越英二、情婦にさせられる叶順子は視線を落としたままで決して目をあわさず、いかがわしさを匂わせる演出として用いられている。

また、見た目ショット、モノだけを映したショットはあまり見られない。『最高殊勲夫人』で嫉妬からトンカツをがつがつと食べる女性社員を見て驚く男や、『巨人と玩具』で社員の男が適当にめくっている漫画本に、カメラはけっして寄らない。

こうしたところでもしアップしてしまった場合、心理的であると同時に、説明的に映画を停滞させてしまうことがある。この細部の省略の積み重ねが増村保造の映画を見ているときに、矢継ぎ早にどんどんと進んでいるように見える理由の一つだろう。

 これらのスタイルを『妻は告白する』の撮影監督小林節雄は増村保造著、監修藤井浩明『映画監督増村保造の世界』(ワイズ出版、一九九九年)にて、「みんな入れ込みで芝居させるでしょ。そうすると、キャメラマンというのは、ちょっと構図を凝ってみたいと思いましてね、いろいろアングルを細工するでしょ。そうするとやっぱりすれ違いになっちゃうんですよ」(P361)、「それから目線のやりとりね。単独アップで切り返さないというのは、カットバックされた場合、目線が直線にならないこともあって、何か訴えるものが弱くなるとか、そういう点を考えているわけです」(P362)と説明している。

大映初期のスタイル

 さて、初期の増村の作品では冒頭でも指摘したように、『くちづけ』や『青空娘』ではカメラが役者に追いつこうとするかのようにトラッキングする。『巨人と玩具』は特にそうした傾向が顕著に見られ、高松英朗が宇宙服を懸賞にすると宣言しつつ、重役たちのテーブルを素早く歩きながら義理の父役の信欣三を文字通り置き去りにする際に、カメラはその様子を流れるように撮る。圧巻なのは彼が川口浩を徐々に徐々に追い詰めるところをひたすらにカメラが睨みつけるところで、この場面をみごとに持続させている。

これは撮影監督がベテランの村井博であったことが少なからず影響しているだろう。『妻は告白する』以前の増村映画のカメラは非常に動く傾向があることは、前掲書にて触れられている(P354)。

そして、初期の増村の芝居は腹のそこから声をだし、ハキハキと休む間もなく、台詞を読み上げる、ほとんどスクリューボールコメディの『ヒズ・ガール・フライデー』を思わせる狂騒が露わになっている。そこでは心理はほとんど問題にならず、人物の行動がいっさいの思想や感傷を想起させず、『巨人と玩具』のように資本主義や消費主義、高度経済成長期の日本を映しだしたテーマよりも川口浩がただ宣伝マンとしての仕事を続けることによって結論はでないし、『からっ風野郎』にしても三島がエスカレーターで大往生を遂げようともそのまま幕切れる。そこには芸術や思想を表現するといったことではなく、ただひたすら作品を映画たらしめようとする意識があるのではないだろうか。

Ⅲ『妻は告白する』の濁り

 『妻は告白する』は特異な、ある種転換的な作品であるように思え、どちらかといえば混濁が見られる。

大映初期の増村的に、若尾文子が逃げるようにして裁判所に駆け込むところや、あの一度見たら忘れることはできないであろう階段の手すりにつかまって息も絶え絶えにおりていく様子を、カメラ自身が追い詰めていくかのように追っていくのだが、後述する空間の収縮は本作から始まっているように思える。通常、シネマスコープであれば画面の広さを強調することが多いはずだが、舞台となる裁判所は人物が手前、奥に配置され、あたりをどす黒い影が覆うなか、人物の顔が浮かびあがり、四方八方からフィックスで睨むように撮られたショットが連鎖していくために、閉所恐怖症にでもなってしまいそうだ。

 若尾文子の芝居のテンポが明らかに違う。これまでの『最高殊勲夫人』で見せていた「じゃあね、私も、好きなの」、「わたしも好きなのよ、あなたのこと」、「あなたが好きなの!」の胸が躍るほどの躍動は、どちらかというといまにも倒れてしまいそうに、腹のそこから息も絶え絶えに漏れる「わたしが滝川を殺しました、わたしが滝川を殺しました、わたしが滝川を殺しました、わたしが滝川を殺しました!」という叫びの重厚さとはまるで異なる。

 本作は初期の増村映画に見られた軽やかな傾向と、後期から顕著になる重苦しい様相が過渡期的な凶暴さが混然一体となり、独特の魅力を持っている。

増村保造の演出に対する意識が推移した理由はわからない。ただ、彼はもしかすると若尾文子のスターからの脱皮を促すためにあえてこれまでのスタイルを崩し、変態したのかもしれないが、私的には蓮實重彦編『季刊リュミエール 8 1987 夏』(筑摩書房、一九八七年)にあるように、若尾が「先制攻撃」(P171)をうったことが以後のスタイルを決定づけたのではないかと考えてしまう。

大映後期

 ここからの増村映画はほとんどの場面が固定ショットになっていく。

 カメラが動きを止めたことはレコードをかける場面のデクパージュからも言える。シーンの始まり、小道具を映してからアップからロングへと移行することがよく行われるが、人物がレコードをかけるとそのままカメラが引いていって部屋全体を映す『最高殊勲夫人』と、後の『セックスチェック』においてはレコードをかけるとカットが割れて部屋の全体を映すように異なる。

そこから浮かび上がる差異は他にもあって、部屋が狭くなっている点である。前者の社長一族の平屋と、後者の郊外にある医者の邸宅ではそもそも異なるかもしれないが、増村映画の空間がやはり著しく収縮しているような錯覚をうける。

若尾文子は『映画監督増村保造の世界』にて「あのころは平面的に、横に人を置くのが普通でしょ。だけど、増村さんというのは奥。つまりタテよね。深く人置くという撮り方ですよね」(P242)というが、『卍』で岸田京子と愛しさを叫ぶ、あのほとんど二畳しかないような部屋であったり、『赤い天使』で芦田伸介に献身する蚊帳だけしか見えない窮屈な部屋は非増村的な空間なのだろうか。  

大映の経営が傾いてきたことによってセットに使う予算がなかったと安易に結論づけるよりも、『黒の超特急』を見ると意識的に移行していっているのがわかる。

『黒の超特急』は基本的にローアングル、極度の望遠レンズで覗いているような位置から撮られており、粒子の粗さが目立った、暗澹たるフィルムだ。舞台もさびれた不動産、料亭の隅にある部屋、特急列車、雑居ビルに間借りしているオフィス、連れ込み宿、二号を囲うアパートとひたすらに狭苦しい印象をうける。こうした場所で『巨人と玩具』のようにカメラがせわしなく動く人物を追う事はほとんど不可能であるし、巨大なオフィスを映しだしているわけでもないのにわざわざトラッキングをする必要性もないし、『最高殊勲夫人』の結婚式場やバーのようにエキストラが入り乱れることはあるはずもない。

前掲書の若尾の言葉を借りると、「(前略)ただ、ものをタイトに見る方でしたよね。それがだんだん、狭まってきたかなという感じはしましたね」(P249)ということが作品の画面にも影響したのかもしれない。

だからといって、演出力が衰えたがゆえに画面が貧相になったというよりは、むしろ、増村的フィルムが洗練というか、変質していったように思える。加東大介田宮二郎が坐りながら、あの粘着質な声を響かせながらお互いの腹を探り合っていく様子はすこぶる惹きつけられる。藤由紀子が首を絞められ殺され、目を見開いたまま無残にも横たえられ、あとで隠していた盗聴器で結果的に復讐をとげるというのも、いかにも増村的な、『妻は告白する』の若尾同様、不在の人物の勝利を描いている。

『赤い天使』、『陸軍中野学校』もその画面の異様な暗さがひときわ目立ち、ほとんど室内を舞台に物語は進んでいく。

さらに増村は大映スコープの被写界深度を奥まで合わせたディープフォーカスの画面に並んだ若尾と高峰秀子の嫁姑が、市川雷蔵への献身を争うために自ら進んで実験段階の朝鮮アザミを飲む『華岡青洲の妻』では、ほとんど正坐しているだけにも関わらず、死んだ父親役の伊藤雄之助の家名に縛られた様子をみごとに表象している。ここでの若尾は文字通り、身体を縛って苦しみながら子供を産むように、見ているこちらまで消耗してしまう力がある作品だと思う。普段、人物単独のショットが見られないと指摘される増村映画だが、本作に若尾文子が葬式で線香をあげる高峰秀子をじっと見つめる。彼女はその高峰秀子の背中に何かしらの思いがあったのか、ああしてまでも尽くす理由だったのだろうか。

大映がエログロ路線に行くと、『でんきくらげ』や『セックスチェック 第二の性』、『遊び』といった主演たちは、脱皮前の新人ばかりになっていき、演技の質が若尾文子船越英二、高松英朗と比べれば初々しさが残るようになってくる。さりとて、増村は画面の上ではまったく手をぬかず、どの役者にも声を大きく轟かせ、自らの腹の底を相手にぶつける。空間はさらに狭くなり、『セックスチェック』には広いロッカールームやトラックが出てくるものの、やはり、一部分だけに照明が当てられたり、ほとんど説明のロングショットを撮らないためにさらに窮屈さを覚える。

塩田明彦は『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』(イーストプレス、二〇一四年)にて、「(前略)大映末期の……あるいは大映が倒産したあと、ATGとかで1000万円くらいの非常に限られた予算のなかで、技術的にも追いつかない、エキストラを集める金もない、大部屋俳優も使えなくて、ウチトラっていう「内輪のスタッフ並べただけだろ」みたいなことをやって、昔のような立派なセットではない、テレビ用に作られたものを間借りしてきたような、そういう環境で撮っているときにむき出しになるものがあってですね、それが俳優の肉体と声なんですね。肉体と声が音楽になっているんです。映画の外側に出ようとしてるむき出しの何かがあって、それが素晴らしいんです」(P179)と語る。

増村のいかなる作品も単なる商品にみえない、これまでの作品にあったよりも余裕のなさがいっそう胸をうつ。

Ⅳ宿命的な契約

 これまで映像的なスタイルについて述べてきたものの、小林節雄や若尾文子といった当事者の言説による先制攻撃にはまったく及ばず、新しい解釈をすることができない。

だが、増村の作品を追っていくと、モチーフとして契り、宿命的装置が繰り返し、描かれているのがつかめてくる。

 いささかの単純化や全作品を見ていないということによる欠落があると自負するが、『くちづけ』にあっては野添ひとみが金のために身体を預けることを要求されるが、川口浩の持ってきた金によってことなきをえて、二人がオートバイに乗って疾走することが行われたように、『青空娘』では先生との結婚の約束が反故にされ、弟とともにコーヒーカップの乗り物が回転することによって流転していく運命が表される、あるいは『最高勲章夫人』では若尾と川口の「絶対に結婚をしない」と乾杯しあうも結局は結ばれ、周りに集まってきた男たちすべてを解消しようと地下鉄の階段を駆け上がることがこれからの展開を予期させるだろう。そういえば、『氷壁』や『妻は告白する』でザイルが切れたのはまさしく運命の糸のアレゴリーといえるかもしれない。『遊び』もまた、大門正明関根恵子を連れ込み宿に引き渡す約束を破り、あのいまにも沈んでいってしまいそうな舟でほとんど心中するかのように消えていく

もうひと押し、それらに加えて、解脱のテーマが頻繁にでてきていると思う。先ほども触れたように『黒の超特急』だと殺された藤由紀子の証拠が鍵となって事件を暴き、『妻は告白する』で若尾文子は死んだことによって勝利を得たし、『黒の試走車』の船越英二自死を遂げたことによる罪悪感が田宮二郎を改心させ、『卍』になると若尾文子を観音に見立てて絵を描く場面や書き軸とカットバックされるショットも見られる。こうした不在の人物が、画面に存在する人物たちをかんじがらめにしてしまうために、増村の徹底したオンの空間の描写は貧しくならない、むしろ充実していく。

曽根崎心中』が感動的なのは、梶芽衣子が結婚相手と並んで運ばれていた籠から飛び出し、宇崎竜童と再会し、心中するという男女の契りがようやく遂げられ、朝靄とともに菩薩が映し出されることの成就にあるのだ。